4月からエッセイの添削教室(通信)をお願いしています。
2回目が返ってきました。
直していただいたところを見直すと、句読点がよく直されています。
あまり気にせず、句読点を付けていたのですが、直してもらうと、なるほど、雰囲気変わるなぁと感心します。
毎回、文章の書き方の心得 みたいなものを書いてくださるので、これを貯めていくと結構な財産になるのではと思ってます。
今回は、「切手」という課題をいただき書きました。600字で書くのは慣れていないので、ちょっと大変です。
長い文章を切って、600字にまとめるのですが、切ってしまうと「文章のリズム」が狂ってしまい、たどたどしい文章となるし。。
結構悪戦苦闘しました。
添削していただいたものを直したもの。
あと、先生の講評(もの凄く長かったので一部分だけ)
を添付します。
先生の講評は、「エッセイの書き方」について書いてあるので、もしかしたら皆さまにもお役に立つかもしれません。
宜しかったら、読んでみてください。
課題 切手(600字にまとめる)
明治生まれの祖母は、記念切手を集めていた。発売日になると郵便局に並び、シートで購入する。集めたシートを嬉しそうに眺めては、物思いに耽っていた。
ある時、祖母の家に遊びに行くと、大事にしていた切手がシートから切り離されて。小包にペタペタと貼られていた。
「あれ・大事にしていたのに、使っちゃうの?」
と聞くと、祖母は表情を変えず、こちらを振り向くことなく、答えた。
「あまりに溜まりすぎて。これじゃあ死ぬまでに使いきれないし、残したら勿体ないから使うことにした。」
なるほどなあ。と思ったものの、あんなに大事にしていた切手が、一転してペタペタと無造作に貼られて見るのを見るのは、何とも寂しいものだった。
祖母の心配通り、切手は使いきれなかった。娘である母が、後を継いで使うことになった。
が、世の中は変わった。手紙が電話やメールにとって変わり、小包より宅急便が便利になり、切手を使うことが激減。だからか、亡くなって二十年たっても、祖母の切手は使いきれていない。
私も、人生の終い方を考えてものを購入しないと、祖母の切手どころではなくなると思うのだが、ついつい買ってしまい、物は増えていく。せっかく祖母が教えてくれたけれど、私にも「綺麗な終い方」は無理なようだ。
講評(一部分)
読者には通常、二つの受け止め方があります。
①「わかる、わかる」「あるよね、こんなこと」と言った「同意・共感」
②「なるほど」「勉強になった」と言った「納得・感謝」
この作品では、両者相まった反応が、多いと思います。
また、私はある意味で文章は「読者と二人三脚で綴る」という視点が大切だと、考えています。「読者の思い・理解の状況」への見極めが、常に不可欠です。
エッセイの目的の一つは、「思いを伝えること」。ただ、その「思い」を「何のために」伝えるのか、という点を確認することが必須。それがあれば「どんな人が、どんな状況で」この文章に目を通してくださっているのか・・・・。そういった配慮が、自ずから出来ていることになります。「二人三脚」とは、そういうことではないでしょうか。
ここでは、その辺りへの心配りも、十二分になされています。筆者自身のそれとが、深く輻輳しており、納得感が高まります。