今週のお題は、お寿司。
今から50年ほど前。バンコクに住んでいた。
今は何でもあるのだろうが。
その頃は、日本のものが本当に少なかった。
今のように頻繁に日本に帰れなかった。というか、よっぽどの事情がない限り、日本には帰れなかった。
だから、日本のもの と聞くと住んでいる日本人は群がった。
年末に行なわれる紅白歌合戦を3月にホテルの大ホールでワクワクしながらみた。2日間1日2回上映するにも関わらず、申し込みが多くてチケットも争奪戦だった。郷ひろみがスカート のようなヒラヒラした衣装を着たり、西城秀樹がホースからシュワーと煙をだしているのを
「これが雑誌で見たアイドルか!」と、ワクワクしながら見た。
日本のラーメン屋さん(カウンターしかない小さな店)が出来たと聞くと、暑い中ものすごい行列をして食べに行った。
寿司など。もう高値の花で、高級日本料理屋の隅にカウンターがあったが、我が家には全く関係のない場所で、別の席で何故か鉄板で焼きそばを焼いてもらって食べていた。
バンコクでは日本人の結びつきが強く、その中でも会社同士の家族の結びつきも強かった。
お互いの家の行き来も頻繁だったし、パーティーもよく行われていた。
しかし、パーティーは、大人だけで。
子どもはいつもタイ人のアヤさんと留守番だったが、たまに、本当にごくたまに子どもも呼んでもらえるパーティーもあった。
支店長さんのお家でパーティーが子ども付きで開かれた。その頃の支店長さんは、使用人も家も特別大きく、パーティーができるように会社からあてがわれていた。
その時は、5家族くらいが呼ばれて、ものすごく広い居間にご馳走が並び、飲み物がならぶ豪華なパーティーだった。
料理のひとつが握り寿司で、
なんと、カウンターと寿司職人がいた。
そんなパーティーは後にも先にもその時だけである。
普通でもそれは興奮することなのに、普段食べられない寿司を目の前で握ってもらえる。そして周りの大人たちは、よそ行きの顔で、やさしく「いくらでも食べなさい」などと言ってくれるものだから。子どもたちは、カウンターに座り込み。他の料理はめもくれず、次々と握りを注文した。
小学校の3年生くらいの頃である。
多分、私はカウンターで握ってもらうのは初めてだったと思う。
子どもなのに、お願いするとおじさんが言う通りのものを握ってくれる。
お寿司ってこんなに美味しいものなんだ。と心から思った。当時のバンコクで新鮮なネタはあるはずはなく、もしかしたらお米もタイ米だったかもしれない。でも、本当に美味しかった。
周りの子どもたちと先を争って注文した。
そして、すべて食べ切ってしまった。
子どもの幸せな満足な顔と反対に大人たちの残念そう(大人にとってもきっとワクワクするものだったんだろうとおもう)な顔は、今でも覚えている。
帰りの車の中で、両親に「あんなにがっついてみっともない」と怒られたが、母は本当に怒っていた。食べられなかった怒りだったんだと思う。
でも、あのカウンターの光景は今でも思い出し、今でも幸せな気分にしてくれる。
バンコクから日本に帰国するとき、あの頃は日本への直行便が無かったので、香港に寄った。香港に寄るなら、せっかくだから一泊しようと、母が父に懇願して、香港の夜をすごした。香港はまだイギリス領で、二階建てバスが走り、おしゃれな街だった。
香港の夜景を観て、レストランで洋食を食べた。そして次の日、絨毯を買いたいと、なぜか香港の三越のデパートに行った。子どもに絨毯は全く興味がない。
でも、バンコクにはない、缶入りペプシ(バンコクは全部瓶入りだった)を買ってもらって満足していた。
ふらふらしていると、日本料理屋さんがあり。寿司カウンターがあった。
「寿司食べたい!」と叫ぶと
父も「寿司いいなぁ」と乗り気になった。
でも、その日の夜に飛行機に乗って、その日のうちに日本に到着する。そしてそこからは日本で生活するのに。
私は、とにかく寿司が食べたかった。
母は、「香港で寿司ってなーに!中華でしょ!」と迫ったが。
私は絶対寿司だった。父は、仕事で何度も香港に来ているので別に何でも良かったのだろう。母は憧れのペニンシュラホテルに行きたい、中華も食べたいと叫んでいたが、私はタイにいる4年の間、寿司はその支店長さんの家の寿司だけだった。しかもお寿司の美味しさにその時目覚めてしまっている。
寿司に飢えていた。中華など、何とかホテルなど聞こえなかった。
そして、多数決で寿司になった。
父はせっかく香港に来たからとカウンターで食べさせてくれた。
何を食べたのか覚えていないが、満足したことだけ覚えている。
日本に帰ってきて、今までに沢山寿司を食べた。
タイや香港の寿司とは比べものにならない美味しさなのだろうと思う。
でも、飢えているなかで目の前に並んだ寿司ネタを見た時のワクワク感。満足感。
あの時以上の感動は、未だに経験はない。