8月6日になると、祖父に連れられて原爆慰霊祭に行った時のことを思い出します。
何回も行きましたが、いつも暑い日でした。
あの日も暑かったろうなぁと、水を求めて飛び込んだという川を眺めて、どんなに辛かったろうなぁと。
原爆投下時間になると街中の寺や教会の鐘が鳴り響きます。
黙祷しながら、鐘の音を聴き何とも言えない悲しい明るい音が「綺麗だなぁ」と、聴き惚れていました。
私の母は広島出身
原爆が投下された時は、小学校四年生で一家で疎開していて無事でした。
しかし、祖父は山口に出張していて、行方が分からず。
親戚も大勢広島に住んでいるので祖母は心配で仕方が無かったそうです。
今の原爆記念公園のところに住んでいた家族は全員無事で疎開先に逃げてきました。大きな傷もなく良かった良かったと言っていたものの、ちょっと調子が悪くなったと思ったら、次々と亡くなったそうです。1人だけ、意識不明にはなったものの、なんとか一命を取り止め、90歳近くまで、元気に生き抜きました。
もう一つの家族は、もうすぐ疎開するということで、8月5日に送別会を開いていたそうです。原爆が投下された時は(8:15)は宴会疲れか?皆寝ていたそうで、布団に入ったまま全員爆死していたそうです。
山口に出張していた祖父は、まっすぐ家族のいる疎開先には帰らず、広島に行き、親類の生死を確認、住んでいた家の確認に行ったそうです。
そこで、弟家族の爆死を確認、家も焼けていて管理をして貰っていた夫婦も亡くなったことを確認し、遺体の処理をして疎開先に帰ってきたそうです。
原爆投下直後に広島に入ったことで、放射線の影響かしばらく下痢が続いたそうです。
祖父は事後報告はしたものの、その時の惨状はその後一言も語りませんでした。もちろん孫の私にも。
祖父は毎年原爆の日は欠かすことなく、原爆記念公園に行き、慰霊祭に参加していました。
お墓も自分の家の墓よりも大きな立派なお墓を作り、年に何度も墓参りをして、これ以上ないほど供養をしていましたが。
原爆死没者名簿に亡くなった親戚の名前を入れることはありませんでした。
いまだに名簿には記載されていません。
祖母が「いい加減に広島市に報告しないと」と祖父に言うと、穏やかな祖父が声を荒げて「うるさい!」と怒鳴り返して、びっくりしました。初めて祖父の怒鳴り声を聞きました。
祖父なりの原爆に対する怒りがあるのだと思います。その怒りが何なのか、誰にも話すことなく亡くなりました。
原爆を経験された方の経験談を伺うと、あまりに酷い惨状に耳を覆いたくなります。
祖父は何も話さなかったけれど、その怒りは充分に伝わってきました。
私にはそれで充分、原爆への怒り、戦争の怒りは伝わりました。
悲惨さを語ってくださる方、余りに悲惨で何も言えなくなる方。
祖父は声に出して伝えることは出来なかったけれど、充分な語り部でした。
私は何の体験もしていないし、伝えるものは何もないけれど。
核は持ってはいけない。
戦争も絶対やってはいけない。
それだけは、伝えていこうと思います。